以上 (法隆寺には、他にも薬師さま関連のある仏様などは、まだまだおられるが、一応この程度の紹介にとどめよう。)
金堂の四天王像(持国天、増長天、広目天、多聞天)の、多聞天像の光背に「薬師徳保(くすし のとくほ)」を上として鉄師と二人で作ったとある。
薬師の姓を、はじめて賜えられたのは雄 畧朝(四七八~五一〇頃)に百済からきた、才人(てひと)の徳来(とくらい)の五世の孫と称す る恵日(えにち)である。
彼は遺随留学生で「随」で医術を学び、これがため「薬師(くすし)の 姓」を与えられたと伝えられ、再度、白雉五年(六五四)に遺唐副使となって中国へ渡っている。
前出の薬師徳保は、これらの系統の人で美術工芸や医術にも秀いでた仏師兼薬師の指導者(主任) であったと、私は推測している。
私見としては、法隆寺の仏像の制作には、私達・薬剤師の先輩が大いに関与していたのである。
「法隆寺は薬師のお寺」であったという、私の根拠は、このように薬師如来さまが何体もおられるからである。
それは前記のように薬師も仏像などの制作に関与しているからである。
また、創建 の主旨そのものが用命帝の病気回復を願って本尊として薬師如来を祀ることにあったからでも判ることである。
薬師信仰が朝野を含めて、日本人に人気(期待と願望)があったという証明である。
それは、人間の本性そのものが、生命の大切さ、健康で生活を営む大切さ、を願望しているから である。
国の政策としても医療福祉の大切さ、これらが千三百余年を通じて証明される所である。
医療の一端を担う薬剤師として、その職能の尊厳性を、もっともっと強く認識し、生涯を通じ研鑽 し、その責務を「心・身・技」の三位一体で具現せねばならない。
それが、社会に対する「薬剤師 の誓い」であろう。
今回の資料調査で法隆寺に何回も足を運ぶ中で、「法隆寺の薬師如来さま」は、 私にそう問いかけているように感應した。
このことを、私は、「全世界の薬剤師」に伝えることが、 私の責任だと痛感している。
文筆者
(社)奈良県薬剤師会
名誉会長 喜 多 稔