- 薬師如来について
山田寺(史跡)は、古代、飛鳥地方の一地域だったが、現在の区画は桜井市山田1258番地となっている。山号の大化山(たいかざん)は創建者の石川麻呂が大化の改新の立役者の一員であったため、その功績を賛えて命名されたものであろう。
山田寺は、法相宗・興福寺(藤原氏の氏寺)に属する。大化の改新に功績があり、右大臣として活躍した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ、?~649)が舒明天皇13年(641)に造営をはじめた。
諸堂を南北の一線上に配置する四天王寺式の伽藍配置である。いわゆる古いお寺の建立様式である。
創建者の石川麻呂は異母弟である蘇我臣日向(ひむか)の告げ口によって、謀反を疑われたが虚実を尋ねられた時、天皇にお会いして申し開きをしますと、ことわった為、誤解され軍勢がさし向けられた。孝徳天皇5年(649、都は難波)、石川麻呂は自分の正意が解せられず、大和の建造中の山田寺へ逃れたが、追手を迎え討とうと進言する一族もいたが、石川麻呂はそれを許さず妻子一族と共に、山田寺の仏殿において自ら命を絶った。時に大化5年(649)の3月25日であった。
しかし、山田寺造営の工事は死没後もつづけられ、特別の待遇を受けていた。謀反の疑いが解けていたのであろう。
その後、天智天皇2年(663)から天武天皇が、その14年(685)に行幸されるまでのながい期間に諸堂・塔及び丈六(一丈六尺、仏の等身像)の薬師三尊像が完成した。昔から大きなお寺は何十年とかかって造営されているのが普通である。
現在、興福寺宝物館にある「国宝の薬師如来・仏頭(銅造)」は、石川麻呂37回忌の命日に追福のため、天武14年(685)3月25日に仏眼を点ぜられたものである。
その後、文治2年(1187)、興福寺の僧兵により、薬師三尊像が強奪され、興福寺の東金堂の本尊となった。(興福寺が兵火で焼き打ちされたため)
なお、山田寺の塔(塔跡より、現在塔があるとしたら)は、石川麻呂の支配地(墓地もあり)であった大阪府の南河内方面を望みそびえていた、というのが私の観測であると、1967年頃(昭和42年)に私は住職の武田正道氏に現地に立って解説している。恐らく、悲しい死を遂げた石川麻呂を偲んで、望郷の位置に塔が建立されたものであろう。
最近、山田寺跡は古文化史上で光が当ってきた。それは、1982年、1983年に法隆寺よりも半世紀も古い木造建築物出土として、連子窓や東回廊などの一部が発掘され、日本最古の発掘として話題を呼んでいるからである。
現在、国費で山田寺跡の広大な寺跡に塔や本堂などの遺跡地が整備中である。
山田寺と仏頭・薬師如来(国宝)は、1300年の多難を超えて、現在もなお、貴重な日本古文化の宝として生きつづけている。
山 田 寺 跡