- 法隆寺と薬師信仰などについて
法隆寺や聖徳太子のことを先月から調べている矢先、今日(H12.5.16) の奈良新聞に「正岡子 規・法隆寺来訪・」の文章記事(入江春行先生)が、私の目に飛び込んできた。
いつもなら、サッ ーと見過すところだが、鵜の目、鷹の目になっている時である。
何度も読んだ、その文の一部を紹 介すると、……子規の俳句の中で、広く知られている句は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」であ ろう。
「法隆寺の茶店に憩ひて」と詞書(ことばがき)のあるこの句は、自筆句集「寒山落木」の 第四巻(一八九五、明治二十八年の分)に収められているが、奈良の柿はよほど気に入ったと見えて…と柿の句を何句か記載し、当時、子規が「日本」という新聞の記者であったことや、漢詩など も紹介し、奈良での数日間の清遊を楽しんで東京に戻ったが、結核が再発し、帰郷(伊予・松山) し療養に務めたが、殆んど寝たきりのまま七年後に三十五歳で世を去った。
「柿くへば」の句碑は 詞書とともに、子規の筆蹟のままの字で、法隆寺中門東寄りの池の岸に立っている。…とあった。
たまたま、この新聞を見る前日(H12.5.15)に買った「法隆寺の謎(高田管長)」によれば、「子 規のこの句に登場する梵鐘の音は、明治二十二年に造立された西円堂の鐘楼であったと考えられる とあった。
ところが、歴史学者の直木孝次郎先生は、子規の日程などを考証して、この句は法隆寺 でなく、東大寺であったとの説を唱えられている」。とあり、同書では何んの反証も書き添えてな い?。
なお、子規が法隆寺へ来たのは明治二十八年十月とある。ここでは、俳人の正岡子規先生は、 四国は伊予、道後温泉のある松山の御出身であることを憶えておいていただきたい。
さて、聖徳太子の思想について、前出の「法隆寺の謎」によれば、「道後の碑文と十七条憲法」 の項に、伊予の道後温泉へ遊行された時のエピソードとして次のよう記述されている。
皇太子にな られて間もない推古四年(五九六)に太子は仏教の師の慧慈法師(高句麗の僧)も伴い、葛城臣ら のブレーンも同行した。
太子は、道後の湯が豊かに湧き出るのを御覧になって、その想いを述べら れた。
それを石に刻まれているのが「道後の碑文」と呼ばれるものである。今は、伊予国風土記に文面 のみが伝えられている。
難解な言葉で書かれているそうだが、温泉の薬効を讃えるのに託して、国を治める為政者の心構えを明確に打ち出しているのである。
即ち、太陽や月は、誰彼という区別な く皆に満遍なく光を与えてくれる。
それと同様に、この温泉も満遍なく平等の薬効を人々に与えて いる。
光といい、薬効といい、まさに薬師如来のようである。
常にそのような平等性が守られているな らば、それこそが理想の国(浄土)である。
太子は、そのような国を造りたいものだと考えられた。
この旅から帰り、太子は「和を以て貴しと為す」を第一条とした日本最初の「十七条憲法」を制定 するのである。
また、「日本書紀」には、太子だけではなく、舒明十一年(六三九)十二月に、天皇が皇后と共 に伊予の温泉宮に出かけ、五ケ月後に帰京したとある。
(私見、何んと長いこと滞在、よほど親し い国であったのだ。)
また、前述の「伊予・道後温泉碑」に、聖徳太子は「法王大王」と記されていたという。
さて、 小林氏は、聖徳太子の存在が謎に包まれているのは、「日本書紀」と「随書」との記述が、まるで 異っていることにある。
謎は、すべてここから出発しているといっている。
即ち、推古十五年(六〇七)、倭国から小野 妹子を大使とする遣随使の一行が随の煬帝(ようだい)に派遣されたことは中国正史「随書」にも 記録されている。
年代的には「日本書記」と完全に符合しているが、「随書」では、日本の王は女 帝(推古女帝)ではなく男帝と書かれている。
謎の起点はここにある。
「随書」は、大業三年(六 〇七)に多利思比孤(たりしひこ)という倭国の王が使者を派遣し朝貢してきた。
とある問題は、 この多利思比孤という王が何処の、誰かである。
また、開皇二十年(六〇〇)の「随書」には、姓 は阿毎(あま)、字は多利恩比孤、号は阿輩鶏(あはきみ)という王で、妻は鶏耳(きみ)。後宮 には六、七百人の待女がいて、太子の名前は利歌弥多弗利(りかみたふり)という。
この年は、推 古八年に当る。つまり推古が即位し八年目である。
疑へば日本書紀は、ここでも多利思比孤という 名前を隠そうとしている。
また、随書には、阿毎、多利思比孤は"たい国"と記されている。
行路記述によれば、…また竹斯国(ちくしこおく)に至る。
また、東、秦王国に至る。 竹斯国(九州の筑紫か)より以東、みな"たい"」に附廉す。とあり、秦王国とは一体、 どの地方か、小林氏は、「伊予、つまり現在の愛媛県(道後温泉地方?)」でないかと推理されて いる。
伊予の地名に、畑、波田などハタの地名がすこぶる多いとのことで秦氏に関係ある土地らし い。
「伊予温泉碑」の「法王大王」、開皇二十年、多利思比孤の使者は随の役人の質問に答え「多 利思比孤は、天を兄とし、日を弟にしている」といったという。
天が明けない時には政務をきき、 日が出ると政務は弟に任せていると。
つまり、多利思比孤は宗教と政治を統轄して君臨する大王で あり、実質的な政務は弟に任せている。
これらの文脈から、多利思比孤は聖徳太子以外にない。
兄の太子は宗教的権威、つまり法王大王として君臨し、政務は弟の来目皇子ということではないのか。 と、いうのが小林氏の説であり、解説は事例を上げて、まだまだ記述しておられるが、この辺でと どめたい。
私も、多利思比孤を、無理に字解すると、多くの人のための利益を思う比孤(比古、彦、 賢く優しい男子)で、「道後温泉碑」の法王大王の精神と一致すると推思している。
さて、肝心の標題「聖徳太子と正岡子規」のことだが、ここまで読んでいただければ、もうお判 りのように、子規は、何んとなく奈良・法隆寺へ来たのではなく、文学者として「道後温泉碑」の ことを知っていたのではなかろうか。
太子の仏心(満遍なく、慈悲を与える)の、多利思(比孤) に、おすがりし、胸の病も治したかったのであろう。
私は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句の中には、太子が子規よ、もっとしっかり養生せよ と、驚鐘を鳴らしている仏心を、子規がまた、自分の仏心で受心した句のように想ってならない。
柿くへば…柿に托した太子の仏心を…喰へば…治るかも…。とのことではなかろうか。
子規が、同じ時に詠んだ句に、「挽鐘や寺の熟柿(じゅくし)の落つる音」という句がある。
子規は、自分の七年後を悟って、落つる音命を晩鐘に感じたのであろうか。
そうであれば、晩鐘は、…若柿(じゃくし・三十七歳没)の落つる音…を予感した寂しい、あの 世からの聖徳太子の慈悲のシグナルであったのであろうか。
道後から斑鳩へは、東方に当る、東の方に瑠璃(るり)のように輝く、法隆寺の薬師如来(正名 ・東方瑠璃光尊)たちに引かれて子規は斑鳩の浄土へ来たのであろう。
まさか、死後自分の句碑が法隆寺に立てられるとは、夢にも思っていなかったのであろう。
道後 には古くは太子の碑があり、矢張り仏心の連(つな)がりの仏縁があったのであろう。
…子規の法 隆寺での「柿の句」は、ただ風景情緒のみを詠んだ句では決してない。
天才と天才の連結(つなが り)があり、斑鳩と道後、太子と子規は、千三百余年を超えて、碑碑を通じても連結を強くもっていたのである。
仏縁は、時と場所(ところ)を超えて結ばれてゆく因縁(いんねん)をもっている ものである。
太子と子規を偲んで
一句献上
「仏縁でホームページへ太子子規」
薬師天狗 謹詠 (筆者・雅号)
文筆者
(社)奈良県薬剤師会
名誉会長 喜 多 稔