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image 薬師如来について
山田寺の「薬師如来・仏頭と私の出会い」について

薬剤師 喜多 稔
 奈良公園にある興福寺国宝館の人気ナンバーワンは、「仏頭(薬師如来)」と「阿修羅(インドの鬼神)」であろう。中でも、この仏頭(薬師如来)は私の一番好きな仏像である。奇しくも、我々薬剤師の尊敬すべき象徴(シンボル)の薬師如来であり、私としては仏縁に導かれた大因縁であろうか。

 さて、この仏頭が興福寺の東金堂の修理中、須弥座の下より発見された昭和12年、私は10歳の小学生であったが、今でもその新聞の記事写真等が鮮明に私の脳裏に残っているのである。古文化を研究するようになった20歳すぎより、それが、また、いつも私の脳裏から映像となって離れないのである。何か、生まれながらにして私はこの仏頭(薬師如来)と仏縁が出来ていたのであろうか、この原稿等を執筆するため、山田寺跡や興福寺を訪れたのも、平成11年12月1日で、奇しくも私の72回目の誕生日(昭和2年12月1日)であった。

 さて、仏頭(薬師如来)の数奇な運命といおうか変遷を、山田寺に奉納するため自費出版された京都教育大学付属高校の山嵜泰正教諭の文献冊子により、次の通り箇条書に記述してみよう。
仏頭(薬師如来)
(1)戊寅(ぼいん・つちのえとら)678年12月4日に丈六の仏像(薬師三尊)が銅に鋳造され、乙酉(いつゆう・きのととり)685年3月25日に山田寺創建者の蘇我倉山田石川麻呂の祥月(しょうつき・故人が死んだ月)命日に仏眼を点じた。つまり、石川麻呂の自害後36年の開眼供養であった。

(2)1187年(文治3年)、興福寺の僧が山田寺の薬師三尊像を強奪し、興福寺の東金堂の本尊とする。
興福寺は治承4年(1180年)の平重衝の焼き打ちに遭って伽藍の殆どを焼失した。その後の再建の過程で同寺の東金堂の焼けた本尊の代わりとして当時荒廃していた山田寺の薬師三尊像に目をつけ、強奪したのであろう。当時の興福寺の勢力の強さが想像される。

(3)1411年(応永18年)に東金堂は雷の火災で、この仏像の胴体が失われ、頭部だけ残った。

(4)1937年(昭和12年)に興福寺の東金堂の修理中に須弥座の下より仏頭が発見され、大きく新聞などで報道され、その後上述の如く国宝・仏頭(薬師如来)として、興福寺国宝館に展示されている。

(5)この仏頭は童顔の若々しい張りのある肉付き、眉と眼の直線的な切れ味、高い鼻梁(びりょう)、長く垂れ下がる耳は白鳳期の特徴をよく示している。
1023年(治安3年)10月に53才の藤原道長は高野山参詣の途中、飛鳥・山田寺に寄り、堂塔及び堂中は奇偉荘厳で言語に尽くしがたく黙し、心眼及ばずと感嘆した。当時の山田寺の荘厳なことと仏頭(薬師三尊)の凛然(りんぜん)とした姿に感服したのであろう。
史跡山田寺跡
 さて、幾多の災難に遭いながら不死の仏頭(薬師如来)として、しかも、この清らかな童顔、きりっとした高い鼻梁(びりょう)の青年像は生き生きとして、老化せずに生きている。

 それは、白鳳時代(特に美術史の時代区分のひとつ、飛鳥時代と天平時代の中間。7世紀後半から8世紀初頭まで)という、現在の日本の原型が出来た天武・持統朝での天皇の権威の確立、律令の制定、記紀の編纂の開始、万葉歌人の輩出、仏教美術の興隆など、初唐の文化の影響の下に力強い清新な文化を日本人が主役となって創造した時代であったからであろう。

 異国人に直接手をからず、日本人の発想と技術を使って、初めて日本人が造った仏像、これが「山田寺の仏頭」ではなかろうか。

 異国調独特のあの飛鳥仏から完全に抜け出た日本人の仏像、日本の文化の誕生という意味で私は白鳳仏が大好きである。特に、この山田寺の仏頭(薬師如来)は好きで好きでたまらない。

 135才を元気で美的に突破する目標を持つ、長寿実践家の薬剤師・喜多稔として、多難を超えて老化しない薬師如来の仏頭は私のあこがれである。

 私のペンネームは、いつしか「薬師天狗」と命名されていた。いろいろの苦難を乗り越えて今なお凛然とした姿の仏頭・薬師如来を私は尊敬し愛しつづけている。

 僭越ながら歌人・薬師天狗として「山田寺の仏頭(薬師如来)」を偲び、賛えて和歌を一首献上さしていただこう。



仏頭(薬師如来)賛歌

 多難越え 青年薬師 現代(いま)も生き

 白鳳の顔 凛と輝く



薬師天狗 謹詠





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