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image 法隆寺と薬師信仰などについて
(2)聖徳太子について

 聖徳太子は、敏達天皇三年(五七四)に、用明天皇(橘豊日王)を父に、穴穂部問人皇后(用明 天皇と異母妹)を母として生まれた。 この頃は、現在では想像できない近親結婚が多い。

飛鳥の橘で生まれられたと伝えている。厩(う まや、馬屋)の前で生まれたから、「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と呼ばれ、キリストの生誕と 似ているといわれている。

また、母の皇后が御懐妊の時、夢の中に金人(きんじん)が現われ「私 は救世観音である。皇后のお腹をおかりしたい」と、皇后がそれを承諾され、生まれたのが太子で あった。このような伝説は太子信仰が高まった平安時代に、できてきたものと考えられると、高田 管長は著書に記述されている。

 「聖徳太子」とは、太子が亡くなられてからの諡号(しごう、おくりな)である。  江戸時代以前の文献からでは、上宮太子(かみつみやのひつぎのみこ、じょうぐうたいし)とい う名が一番多く使われている。

 太子のいろいろな呼び名を列記しょう。幼名は、厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)。

のちには、天寿国繍銘に、等已刀弥々乃弥己等(とよとみみ のみこと)、元興寺尤六光背銘に、等与刀弥々大王(とよとみみおおきみ)、等刀弥々乃弥己(と とみみのみこ、等と刀の間に、已の字が脱落か)、豊耳聡(とよみみと、豊聡耳・とよとみみの誤 記か)、豊聡耳法大王(とよとみみのりのおきみ)、法主王(のりのぬしのみこ)、上宮聖徳王( かみつみやのしょうとくのみこ)、厩戸豊聡八耳命(うまやのとよとやつみみのみこと)など、い くつもの呼び名がある。

「馬(厩)」や「耳」の字が多いが、馬は耳聡(みみさと)い動物、賢い 動物とされていたと高田管長は書いておられる。

 また、法華経の法師功徳品によれば、「聡耳」は、あらゆることを聞き分ける「天耳」に等しい 「聡い耳」のことであると、「豊聡耳(とよとみみ、豊は美称)」は十(とお)の耳だから十人の 訴えを聞いたことに連想されると、太子信仰は儒教、仏教、道教をもからんで、つくり上げられて きたようである。

 聖徳太子の薨日(こうじつ、死んだ日)は二通りある。一つは、日本書記によると推古二十九年 二月五日である。

中国の高僧の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、西遊記の三蔵法師のモデル)の亡 くなった月・日と同じである。

弥勒菩薩を強く信仰していた高僧である。もう一つは、法隆寺系資 料によると推古三十一年(六二二)二月二十二日に斑鳩宮で薨去させれ、太子の遺体は、母・間人 皇后が葬られている河内磯長の御陵へ運ばれたと伝えている。

大山氏の著者によると、聖徳太子信 仰に加護を求める光明皇后を中心とする道慈ら僧尼三百余人を請じた講会が行われた天平八年二月 二十二日の日に、ちなんでいるとの説である。

 さて、太子の等身像と伝えられる仏像が二つある。一つは、金堂の釈迦像、座像であるが座高か ら推定すると身長は、一七五cmほどになる。

もう一つは、夢殿の救世観音立像で、その像高は、一七八、八cmである。聖徳太子は背の高いお人であったとなる。現在でも一八〇cm位の日本人の青年 は、そう多くいない。

比較するのは畏れ多い話だが、筆者喜多は一七八cmである。 聖徳子とほぼ同 じ身長となり、なんだか嬉しいような気がする。

古代の日本人としては、実に高い身長と思う。

太 子は背の高い外来系の遺伝子が混じっていたのでは、と考え込んでしまう。私も一九五五年頃、台 湾などへ行った時、よく外省人(中国北部系)と間違えられ、喜多(北)だと云ったら北から来た のかといわれ、それから現在でも私は、私自身の遺伝子に中国系の北の背の高い遺伝子が混ってい ると、ふと思うことがある。

また、聖徳太子は馬で走り過ぎ(飛鳥から斑鳩)消化器系などを侵され早死(四十九歳)されたのでは、と思ったりしている。

 昭和五年発行の百円札に太子のお顔が登場する。

その後も、千円札、五千円札に用いられ、昭和 三十四年には一万円札に採用されてお金といへば聖徳太子という代名詞にまでもなって大変な人気 である。

日銀で印刷した「一万円札の第一番(C−1番)」は、法隆寺に奉納されているそうである。

日銀さんも気の効くことをする、百年も経てば一億円にもなるだろう。

 聖徳太子信仰が昂じて、太子は謎に、包まれているところも多くある。法隆寺の高田良信管長さ んにも一九九八、一〇月発行の「法隆寺の謎」という著書がある。

前出の大山誠一氏(長屋王家の 木簡研究家)は一九九九年五月に「聖徳太子の誕生」として副題「聖徳太子は実在しなかった」の ショッキングな本を出している。

関裕二氏(ノンフィクション作家)に至っては「聖徳太子は蘇我 入鹿である」や「天武天皇隠された正体(副題−天武は聖徳太子の子だった)」などなどの著書が あり、古代史ファンの私も頭がコンガラガッテ、何が真実やら右往左往させられている。

 ここでは、聖徳太子の真実を研究するのが本旨ではない。西円堂の「峯(みね)の薬師さん」、 いや、いや、「耳(弥々、みみ)の薬師さん」の喜多説の参考になれば良いのである。

千弍百年余 の「峯の薬師さん」の謎を、解きたいのが本番である。(平成12.5.18 記)


   「聖徳太子と馬の功罪」

 馬は耳聡い…云々は、前出の高田管長の著書の引用だが、私はそうは解釈しない。

昔から「馬の 耳に念仏」、「馬耳東風」など、馬の耳は春風が吹いても感じないとされているからである。

それ よりも、同著書にある「太子の愛馬・黒駒」…甲斐の国から献上された、黒駒に乗って富士山を飛 び越えたという伝説、これが太子の進化性を表わしている。

現在でいへばモータリゼーション(車 社会、自動車化)を、いち早く実行した人だ。

筆者は飛鳥の近くだが、現在でも飛鳥から斑鳩まで の道のりは遠い、馬を駆使されたからこそ、日帰りで斑鳩へ行き執務も、こなせたのであろう。

太 子道という道を、歩いて行けば若い人でも往復一日(四十kmぐらい)はかかり執務など出来たもの ではない。

 さて、斑鳩には「藤ノ木古墳(優秀な馬具も出土)」にみられるよう当時としては、モータリー ゼーションの進んだ集団の居た土地であったと思われる。

だから「厩戸(うまやど・馬宿)」には、 距離と時間を短縮した馬利用、即ち、スピード化(現在なら新幹線、飛行機などを連想させる)、 能率化により文化、経済等が促進された近代化という意味が含蓄されている。

現在流にいえば 「豊聡耳厩戸皇子」は「近代化情報促進皇子」という表現になるのではなかろうか。

 太子は、乗馬術にも優れていて、学問の落着いて出来る良い土地を探しておられ、乾の方へ矢を 放ち多(おお)神社の近くの、現・矢継の宮、を第一回目候補地とし、そこから、また乾の方向へ 矢を放ち、遂いに斑鳩の里に決められたと伝え聞くが、それは学問所と同時に、馬飼育(モータリ ゼーション的)にも斑鳩は良き選良の土地であったのであろう。

 然し、前述のよう、太子はまた馬を使い過ぎて体を害し、命を早められたようにも考察するもの である。太子のように長身の人であれば当時の馬(小さい)としては、荷が重かったことであろう。


文筆者
 (社)奈良県薬剤師会
 名誉会長  喜 多   稔






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