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image 法隆寺と薬師信仰などについて
(1)法隆寺の創建について

 法隆寺は、斑鳩寺・鵤寺・鵤大寺・鵤僧寺・伊我留我寺・伊我留我本寺・伊河留大寺等と、和名ふ うに地名にもとづき、奈良朝以前のならわしで呼ばれてもいた。

中国ふうの、法隆寺、法隆学問寺と の寺名は、奈良朝以後に一般に用いられたようである。

 正史とされている日本書紀には、推古天皇十四年(六〇六)の条に「斑鳩寺」という寺名がはじめ て表れ、天智天皇九年(六七〇)の条には「法隆寺」という寺名がはじめて使われている。

 法隆寺は、ふつう聖徳太子の建てた寺として小学生でも知っている。

それは、法隆寺の金堂(本尊 を安置する中心堂)の中の薬師如来像の光背の裏に刻み書かれている銘文に基くからである。

その銘 文とは、用命天皇が病床につかれた時、歳は丙午に次(やど)れるの年(用明天皇元年、五八六)に、 大王天皇(用明帝の妹の推古女帝)と太子(聖徳太子)とを呼んで、「病気が治りたいと思うから、 寺をつくり、薬師像を祀って祈りたい」と仰せになった。

しかし、用明天皇は、崩御(用明二年、五 八七)され、この造寺造仏を果されなかったので、推古天皇と聖徳太子が用明帝の遺願に従って歳は 丁卯に次(やど)れる年(推古十五年、六〇七)にそのことを果した。とある、しかし日本書紀には、 その前年の推古天皇十四年(六〇六)に太子が斑鳩寺を寄進したことを記録しているだけで、同寺の 存在は判るが創建についてはふれていない。

そこで、創建などについて、いろいろな論議がなされて 来た(ここでは省略する)。

 さて、用明天皇のため創建された最初の法隆寺は、創建後六四年にして火災にかかり一夜にして焼 失したと伝えられている。

 それは、日本書紀の天智天皇九年(六七〇)の条に「夏四月癸卯朔壬申、夜半災法隆寺、一屋無余、 大雨雷震」との記録によるものである。(同じ紀に天智八年・六六九、にも斑鳩寺に災(ひつ)けり とある、どちらが正しいか?)。

然し、法隆寺側では古来から、この焼けたことを否認して、今の法 隆寺こそ推古十五年に創建されたものだとしていた。(近年は紀に従っておられる)。

 明治二十年代になって、この日本書記の記載をめぐって、再建論の喜田貞吉氏(黒川、小杉両氏の 論を継ぐ)、非再建論の関野貞氏(平子氏も同論者)が、それぞれの代表論客として半世紀以上も論 戦がつづけられた。(以上は、(株)淡交社発行・北川桃雄氏著書による)。

さて、まず戦前の「再 建・非再建論争」は、法隆寺二院説がでて複雑な展開を示したが若草伽藍が昭和十四年に発掘され、 終止符を打った。

若草伽藍(注、昔は花園とも呼ばれていたとある)の寺院は明らかに西院より古く、 しかも四天王寺式伽藍配置をもっていた。(注、現在の寺より古い型式)。

 したがって、創建(最初に出来た法隆寺)の若草伽藍は、天智九年(六七〇)に焼失しその後の再 建にかかるのが現在の西院伽藍(現、法隆寺)とされた。焼失後は、しばらく再建できず、天武年間 (六七二〜六八九)末頃から再建を始めたと見られている。

 また、「西院資材帳(天平十九年・七四七作成)」によると、五重塔に塔本塑像がつくられたのが 和銅十年(七一一)で、またこの年には中門の仁王像も造られた。  つまり、再建された西院は長い年月を経てこの頃にほぼ完成したことになる。

だから、法隆寺は飛 鳥時代の建物でなく白鳳から奈良時代へかけて、ぼつぼつと建てられて行ったのであろう。

以上は、 法隆寺・「建築」、藤井恵介氏著を参考とした。

 しかし、焼けた時に、堂内の仏像は持ち出されたのか(高田管長の著書には、太子の忠臣が運び出 したのでは?。と記述されているが夜半のことであり、重い大きい仏像が、そう簡単にはむつかしい だろう?)。

若し焼けてしまったら、その後の作か、などなど疑問はいろいろあるが、立派な法隆寺 が現存している今、この辺りで建立については説明も終わっておこう。

時代区分(参考)
○飛鳥時代(五三八〜六四四)
○白鳳時代(六四五〜七〇九)
○天平時代(七一〇〜七九三)


  法隆寺の宗派について

 法隆寺の宗派は、高田管長の著書によると中世から「三経宗」や「太子宗」と呼ばれていた。

それより以前は「唯識衆(ゆいしきしゅう)」「三論衆(さんろんしゅう)」「律宗(りつしゅう)」と いった学派的な名称はあったが、宗派的なものはなかった。

特に、鎌倉時代からは聖徳太子が撰述さ れた勝鬘経、維摩経、法華経の注釈書である「三経義疏」を講賛し、合せて「三論宗」「法相宗」 「真言宗」「律宗」の四宗を兼学していた。

明治五年、太政官布告により「真言宗」や「浄土宗」な どの大宗派に統合されるよう勧告された。

 その結果「真言宗」の所轄となったが、法隆寺と興福寺は伝統的二寺に共通する「法相宗」となっ た。

戦後は、太子宗、三経宗へ戻るために「聖徳宗」として独立し現在に至っている。

聖徳太子を開 祖として太子が撰述された「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を聖典とし、「以和為貴」など太子の 思想を要諦となすとのことである。

兒島建次郎氏の著書によれば、聖徳太子は徳、仁、礼、信、義、 智という五行思想に基づく儒教の徳目と、仏を「四生の終歸(あらゆるいきもののよりどころ)」と して和を以て貴しと為し、詔を承りては必ず謹め」と、日本歴史の中で、初めて倫理的政治の必要を 明らかにした。

 「篤く三宝を敬へ、三宝とは仏、法、僧なり」と、仏教思想を基底とし、礼を重んじる道徳的な規 範を示し儒教的精神に裏打ちされているとある。

 「世間(せけん)は虚(いつわ)り仮(か)にして、唯仏(ただほとけ)のみ是真(これまこと) ぞ」という太子の言葉は崇高な仏の心で太子は、仏教哲学に通じた人物であった。

私は、高田管長の 説く、この、「聖徳宗」と「日本人の太子信仰」も、これが基本であろうと思っている。

しかし、仏 の世界に真実を求めた太子も、六二二年(推古三十年)、四十九歳で斑鳩宮で亡くなられたことは、古代といへども、百寿人生に挑戦している私にとっては、何か、天才である太子と子規に共通する死 の終歸があったのであろうか。

 (聖徳太子と正岡子規の頃も、ぜひアクセスして下さい)。


文筆者
 奈良県薬剤師会
 名誉会長  喜 多   稔






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