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法隆寺と薬師信仰などについて

(4)法隆寺・西円堂(さいえんどう)

峰の薬師は、耳の薬師が本当では? ~太子の、み祢(御霊・みたま)安らかに~

日本の薬師信仰は、飛鳥時代にさかのぼる。

法隆寺の根本本尊である金堂安置の薬師如来坐像は、 用明天皇が自分の病気平癒のため、薬師像と寺塔の建立を発願、しかし、果たすことなく逝去。

そ こで、聖徳太子が父用明天皇の御遺志をついで、推古十五年(六〇七)に、薬師像を本尊として法 隆寺を造立した…という縁起がこの薬師像の後背に刻まれている。

…爾来、法隆寺は約千三百有余 年の法灯を護り今日に至っている。その間、法隆寺に現存する薬師像の数は、きわめて多い。

 中でも、法隆寺境内の西北丘上の峯(?)にある西円堂の御本尊は、光明皇后(注、藤原不比等の三女) の御母・県犬養橘三千代(注、不比等と再婚する前に、皇族の美努王と結婚、葛城王即ち橘諸兄を 生む)の御願により、養老二年(七一八)に造立せられ、日本最古最大の脱空乾漆像として名高い。

……また、この西円堂の円陣には、各時代にわたる数千振りの刀剣等の武具類、更に無数の鏡及び 絵馬等が奉納されている。

(注、現在は倉庫に収納され、陣内には錐など少しあるだけである)こ れらは、薬師如来に対する一般民俗信仰から産まれた除病安楽、祈願報恩のためのものである。

な お、この西円堂の御本尊は俗に「峯の薬師」と愛称されているが我が国では地方に「峯の薬師」と称する民間信仰が流行したようである。

特に、この西円堂のお薬師さまは、耳病によく効くという ので、錐(きり)を納める風習が今日に伝わっているが、或いは「峯の薬師」が「耳の薬師」と混 同したのではなかろうか。

これら、薬師像を根本本尊とする法隆寺創建の由緒から始まる法隆寺の 薬師信仰は、日本の民俗信仰の発展と共に、特に西円堂の「峯の薬師」に集中せられて今日に至っ ている。
(以上は、「大法輪」s59、12号の特集である「薬師如来の寺と信仰」の中の「法隆寺の薬師信仰 (法隆寺管主・大野可園師の記述)」の項を、筆者が抜粋して掲載さしていただいたものである。

 しかし、筆者喜多は、これについて議論がある。つまり、法隆寺側では、「峯の薬師」が本当で、 「耳の薬師」は、混同して間違いだと書いておられる。

筆者は、「耳の薬師」は、混同でなく、こ の呼称が本当だと思っている。

地方の峯の薬師信仰があったとすれば、それに法隆寺が巻き込まれ 「耳の薬師」を「峯の薬師」として、寺自体が長い歴史のどこかで、自主性を消失したのであろう かと思う。

なぜなれば、法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺であることは、誰れでも百も承知のことである。

聖徳太子の御名は「厩戸豊聡耳法大王(とよとみみのりのおおきみ)、厩戸豊聡八耳命(うま やとのとよとみみのみこと)」などであり、天寿国繍帳銘には「等已刀弥々乃弥己等(トヨトミミ ノミコト)」、元興寺尤六光背銘には「等与刀弥々大王(トヨトミミオオキミ)」とある。太子の 現存中は「豊聡耳…(とよとみみ…)」であったのである。

だから、後年に至っても、「耳の病」 に御利益があることで錐(きり)等を供え、一般庶民が信仰を深めたのは当然のことである。

 ちなみに、橿原市久米寺の薬師如来は「眠病に御利益がある」といわれている。

それは聖徳太子 の同母の弟君「来目皇子(久米皇子)」ゆかりのお寺であるからである。

両寺ともに創建当初から、 兄君の「豊聡耳皇子は耳」、弟君の「来目皇子は目」、このお名前にゆかりのある、耳と目が、お寺と庶民の素朴な薬師信仰への願いであったのではなかろうか。

なお、また西円堂は低い丘であっ て、決して峯という山ではない。

雨が降れば霞や霧のかかる山頂が峯である。例えば、現・桜井の 多武峯(標高六〇七m・田身嶺)とかを指して名づけるものである。

昔の人は文字や言葉を大切に使うから、丘を峯とは使わないと筆者は思う、歴史の途中で法隆寺側の誰れかが、峯の薬師信仰の 流行に迎合して耳を峯と誤記していったのではなかろうか。

平成12年5月6日参詣し、お寺の係りの人にも聞いたが、峯にあるから峯の薬師と呼ぶと云っておられたが、あの位置は丘であり決して 峯とはいえない丘地である。聖徳太子が豊聡耳皇子であることを御存知のはずであるのに、困った ものである。

 さて、法隆寺中門前の「養老年間・行基菩薩作」とある「左西圓堂み祢 の薬師如来」の石柱を写真撮影した。

 

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この文字「み祢 」の意味は「峯」ではない。角川書店の「大字源」 によれば、「祢とは、親又は祖先の御霊屋(みたまや)」という意味であると解説されている。

禰祖(祢祖・でいそ・祖先の御霊屋)、禰宣(祢宣・ねぎ、宮司、神職)、禰(祢・みたまや・ア マネシ・オヤ)など。

また、爾(畧字、尓。耳と同じ音意)は「じ」で「耳(じ)」と同意に使わ れる。

したがって「御霊屋」や「耳」に関係は連がるが、石柱の「み祢」は「峯」の意味には全然 関係がない。

創建者と伝えられる行基が「峯」との意味を全然表わして書いていない。

その証拠の 石柱が、現在も法隆寺に立然として聳えている。

それなのに、なぜ寺側は「峯」とするのだろうか。

多分、音訳だけで「み祢」と「みね(峯)」を一緒に間違って考え峯という文字にしたのだろう。

前出に、地方で峯の薬師信仰があったと大野管主が記述されているが、これも「み祢(御霊屋)」 の薬師、いわゆる「ご先祖の御霊屋(みたま)と共にお祈りする薬師さんの意味の(み祢の薬師) を(みね)から(峯)へと間違って書き、少し小高い(お寺は、みな丘や山などに多い)ところにある薬師さんは、みな「峯」の薬師になって行ったのであろう。

光明皇后の母の橘夫人が、遠祖である聖徳太子(豊聡耳皇子、父・用明帝は橘豊日天皇という)の、 橘姓にゆかりの深い祖先の御霊(みたま)を安らかにと発願して行基に建てさしたという寺伝から して明かに「み祢(みね、又はみみ)」という意味である。

法隆寺が朝野(西円堂の薬師には庶民は当然のこと京都御所からの奉納もあった)の尊崇を集めて いた理由の一つは、西円堂の薬師があったからである。

法隆寺は、上流の人々には学問も出来、信仰の場でもあったが一般庶民には病気になっても苦痛の訴え所ではなかった。

光明皇后の母、橘夫人は、それを知り、この庶民の肉体的、精神的、物質的な苦痛を癒やすため、と太子を中心とした 先祖の霊を祈るために、行基に言葉をかけて建てられたのが西円堂の薬師さんであった。

学問僧や上流の人々の参詣を、はばかって見ていた人々も、西円堂へは足しげく、誰に遠慮もなくお参りした。

当然、諸民の祈願するところは現実の悲運や病気から救われようとするものだ。

そのうち聖徳 太子の聡・耳にあやかる願いも多くあったのか、特に耳の病には御利益があるといわれた。

難聴の 耳を祈祷した、この錐で突く真似をして良く音波を通すようとのことらしい。

剣や弓矢、女は鏡を 持って祈願の人は絶えない、寺では「お守り」として錐を授与している。
(以上は、s47、6 、15 号の薬慈新報・瀬鳴記による) 。  

また、刀(かたな・刀剣)の背のことや、刀の刃と反対部分を「峰(みね)」と呼ぶが、前出に数千振りの刀剣の奉納とあるが、これは「峯の薬師」ということで、この刀の峰にちなんで多く、 祈願成就との交換に奉納されたのであろうか。

また、女性は鏡の奉納が多いとあったが、筆者も何 十年前に鏡を買った記憶がある。

信仰や縁起とは妙なものである。

最近、ふと思ったことだが、聖 徳太子とゆかりの深い、京都の太秦(うずまさ)の蜂岡寺(現・広隆寺)は、牛祭りで有名(法隆寺 も牛玉降しなど牛にちなむ)だが、この蜂岡や、蜂田の薬師など、秦(はた)系に、蜂(ほう、は ち)を冠する文字が良く出てくるが、この蜂(ほう)の薬師が、峰の(ほう、みね)の薬師に誤記 記称されたのではなかろうかと感じることもある。

蜂(はち)は、古代から医療に重宝がられ、現 在も蜂蜜や蜂の針、蜂の子など人気がある。

私も毎日、蜂蜜を服用して元気でいる。

 さて、地理的条件を示す「峯(みね)」と薬師の関係は、どう考えても不自然のように思えてな らない。

法隆寺さんには大変申し訳ないが、法隆寺側と、読者の皆様に、峯の薬師の呼称につい ての、疑問の一薬石を、ここに投じる次第であります。

 歴史の専門家も含め、アクセスして御指導の御議論を展開できれば幸いでございます。

 真実を求めて、太子の「み祢(みたま)」を安らかに祈りたいからである。


文筆者
 (社)奈良県薬剤師会
 名誉会長  喜 多   稔